皆さん、コーヒーやお菓子はお好きですか?
仕事や勉強で疲れた時に飲む、甘いコーヒー。最高ですよね。
コンビニで買えるチョコレート。疲れた脳に染み渡りますよね。
でも、歴史を遡ると、かつてヨーロッパの人々にとって、この「甘さ」はある意味で「麻薬」でした。
一度その味を知ってしまったら、もう戻れない。
紅茶にたっぷりと砂糖を入れ、チョコレートを貪り食う。
18世紀、ヨーロッパの労働者階級が紅茶に砂糖を入れて飲むようになり、カロリー源して、そして精神的な慰めとして、「甘味」は爆発的に普及しました。
しかし、その優雅なヨーロッパのティータイムを支えるために、太平洋の向こう側で、一体どれだけの「血」が流されたか。
あるフランスの哲学者は言いました。
「ヨーロッパ人が砂糖を食べる時、そこには常に血の味が混じっている」と。
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今回のテーマは、世界史における最大規模の組織犯罪。「大西洋奴隷貿易」です。
15世紀から19世紀にかけて、推計で1200万人以上のアフリカの人々が、無理矢理船に乗せられ、大西洋を渡らされました。
1200万人です。
今の東京都の人口がまるごと消えて、別の大陸に連れ去られたようなものです。
さらに、捕獲される過程や移動中に亡くなった人を含めると、犠牲者は数千万人とも言われています。
彼らは「人間」としてではなく、「黒い象牙」「動く道具」という名の「商品」として扱われました。
教科書には、「三角貿易」という言葉で、地図上に矢印が書いてあるだけです。
ヨーロッパからアフリカへ、アフリカからアメリカへ、そしてヨーロッパへ。
でも、その矢印の一本一本は、文字通り、絶望と悲鳴と、おびただしい死体で塗り固められています。
今日は、特に恐ろしい「ミドル・パッセージ(中間航路)」と呼ばれる船の旅の実態について、詳しくお話します。
なぜ人間は、同じ人間に対してここまで残酷になれたのか?
それは単なる「人種差別」だけでは説明がつかない、冷徹な「ビジネスの論理」があったからです。
「三角貿易」は国家が関与したグローバルビジネス
商品と引き換えにアフリカで奴隷を仕入れる→アメリカの経営者に売る→作られた商品を積んで帰る
まず、感情論を抜きにして、残酷な現実を突きつけます。
奴隷貿易は、一部のサディストが趣味でやったのではありません。
国家が関与し、銀行が融資し、保険会社がリスクを請け負った、超高収益な「グローバル・ビジネス」だったんです。
仕組みはこうです。
まず、イギリスのリヴァプールやフランスのナントといった港から、船が出港します。
積んでいるのは、武器(マスケット銃)、綿織物、ガラス玉などの装飾品、そして「酒(ラム酒やブランデー)」です。
彼らはアフリカ西海岸(ギニア湾岸など)へ行き、現地の仲買人やアフリカの王様たちから、それらの品物と交換で「黒人奴隷」を仕入れます。
次に、その奴隷をアメリカ大陸やカリブ海の島々へ運び、プランテーション経営者に売り飛ばす。
そして最後に、奴隷たちが作った砂糖やタバコ、綿花を積んでヨーロッパへ帰る。
これが有名な「三角貿易」ですね。
このシステムの凄さは、船が常に満載状態で、空荷で走ることがない点です。
行きも帰りも荷物が満載。だから、往復するだけで莫大な利益が出ました。
当時のイギリスの港町リヴァプールなんて、この奴隷貿易の利益で道路が舗装され、市役所が建ち、銀行ができたと言われるほどです。
街のレンガの一つ一つに奴隷の血が染み込んでいるようなものです。
「モノ」として扱われる「人間」
ここで注目してほしいのは、「人間が完全にモノ扱いされている」という点です。
アフリカの海岸には、ヨーロッパ各国で建てた強制収容所がありました。
ガーナのエルミナ城などが有名です。
集められた人々は、そこで焼きごてを押されました。
牛や馬と同じです。
「この商品は、イギリスの王立アフリカ会社の所有物です」
「この女は、フランス証人の所有物です」
という印を、胸や背中に、熱した鉄でジュッと焼かれるんです。
彼らに名前はありません。あるのは「在庫番号」だけです。
そして、選別の基準は「歯」でした。
これも馬を買う時と同じやり方です。
口を無理やり開けさせ、歯が丈夫か、虫歯はないか、年齢はいってないかを見る。
老人も子どもも関係ない。
ただの「労働力」というスペックだけで値付けされ、船積みリストに書き込まれていったのです。
当時の奴隷承認の日記には、こんな記述があります。
「今日は商品の状態が良い。これならジャマイカで高値がつくだろう」
彼らにとって、それはトマトやジャガイモの品質チェックと何ら変わらない作業だったのです。
多くの人が亡くなった航海…劣悪な船内環境、人間として扱われない奴隷
ギッシリと詰め込まれ、鎖で何週間も固定
さあ、ここからが今日の本題、最大の地獄です。
アフリカからアメリカ大陸までの、大西洋を横断する数ヶ月の航海。
これを「ミドル・パッセージ(中間航路)」と呼びます。
この船の中がどれほど酷かったか。
皆さん、満員電車のことを「すし詰め」といいますよね?
奴隷船の「すし詰め」は、そんな生易しいものじゃありません。
有名な「ブルックス号」という奴隷船の断面図が残っています。
これを見ると戦慄します。
船底の狭い空間に、人間がびっしりと、隙間なく、まるでマッチ棒のように並べられている。
一人当たりのスペースは、幅数十センチ、長さ180センチ程度。
棺桶よりも狭い。
天井も低いので、座ることすらできません。
寝返りはおろか、膝を立てることすら許されない状態で、鎖でお互いに繋がれ、何週間も固定されるのです。
トイレ?もちろんありません。その場で垂れ流しです。
船底は何百人分の排泄物と、船酔いの吐瀉物、そして擦れた傷口から出る腐った血の臭いで充満していました。
通気口も少なく、熱帯の暑さの中で蒸し風呂状態。
息をするのも困難で、窒息死する人もいました。
奴隷は農作物と同じ…タイト・パッキングvsルーズ・パッキング論争
ここで、船長たちが頭を悩ませた「ある計算」があります。
これを聞くと、本当に人間が嫌になりますよ。
「タイト・パッキング(詰め込み主義)」VS「ルーズ・パッキング(ゆとり主義)」という論争です。
「ルーズ・パッキング」派は言いました。
「少し余裕を持たせて積めば、死亡率が下がって、到着時の商品状態も良くなるから、結果的に高く売れるはずだ」
対して「タイト・パッキング」派の主張はこうです。
「いや、どうせ途中で2割~3割は死ぬんだ。病気や自殺で減る。だったら、最初から限界まで隙間なく詰め込んだ方が、死んだ分を差し引いても、最終的な利益は多くなる」
この計算式の中に、「人命」や「尊厳」という変数は入っていません。
「人間が死ぬこと」を、最初から「コスト(経費)」として計算に入れているんです。
トマトや卵を運ぶときに、「いくつかは潰れるだろうから多めに積もう」と考えるのと全く同じ感覚です。
そして多くの場合、利益を優先した「タイト・パッキング」が選ばれました。
かつて奴隷としてこの航路を体験し、後に自伝を書いてイギリスでベストセラーになったオラウダ・エクィアノという男性がいます。
彼はこう書き残しています。
「船底の悪臭は、言葉では表現できないほどだった。窒息しそうな熱気、鎖の擦れる音、女たちの悲鳴、そして死んでいく人々のうめき声。そこはまさに地獄だった」
人間として扱われない極限「ゾング号事件」…保険金のため130人以上の生きた奴隷を海へ投げ込む
そんな劣悪な環境ですから、当然、病気が蔓延します。
赤痢、天然痘、壊血病、チフス。
朝起きたら、鎖で繋がれた隣の男が死んでいて、死後硬直で冷たくなっている…なんてことは日常茶飯事です。
死体が見つかると、船員たちはそれを海へ放り投げます。
葬儀なんてありません。ゴミ捨てと同じです。
すると何が起きるか。
「奴隷船の後ろには常にサメの大群がついてくる」と言われました。
サメたちは学習していたんです。
「あの船の後ろにいれば、定期的に餌(人間の死体)が落ちてくる」と。
海に落ちたのが死体ならまだマシです。
時には、病気にかかっただけの生きた人間が、感染拡大を防ぐために生きたまま海へ投げ捨てられることもありました。
この狂気を象徴する、史上最悪の事件があります。
1781年、「ゾング号事件」です。
イギリスの奴隷船ゾング号は、航海中に水不足に陥りました。
また、病気が蔓延し始めていました。
「このまま奴隷たちが病死したら、それは『自然死』扱いになり、保険が下りない。船主の損害になる」
「でも…もし、積荷(奴隷)を『安全のために投棄』したなら、それは『海難事故』扱いになり、保険金が請求できるはずだ」
彼は決断しました。
なんと、130人以上の生きた奴隷を、海へ突き落して殺害したのです。
女も、子供も、手足を縛られて、サメのいる海へ投げ込まれました。
更に恐ろしいのは、この後の裁判です。
イギリスにもどった船主は、保険会社に対して「失われた積荷(奴隷)」の代金を請求し、裁判になりました。
争点になったのは、「大量殺人」ではありません。
あくまで「保険金の支払い義務がどうか」という、民事上の金銭トラブルとして争われたのです。
裁判官も「馬を海に捨てたのと同じことだ」と言い放ちました。
人間が人間として扱われない極限。それが「ゾング号事件」です。
この事件は後に、イギリス国内で奴隷貿易反対運動が盛り上がる大きなきっかけとなりました。
筋力をつけるための時間「ダンシング」
さらに、商売人たちは「商品の品質維持」にも気を配りました。
運動不足で筋肉が落ちると、オークションでの商品価値が下がります。
そこで設けられたのが、「ダンシング」という時間です。
天気の良い日に、奴隷たちは甲板に引き出されます。
そして、鞭を持った船員に監視されながら、太鼓のリズムに合わせて無理やり踊らされるんです。
足枷をつけたまま、ジャンプしたりステップを踏んだりさせられる。
拒否すれば鞭で打たれる。
歌うことを強要されることもありましたが、彼らが歌うのは故郷への別れの歌や、悲しみの歌だけでした。
これほど屈辱的な「ダンス」が、他にあるでしょうか?
奴隷は死ぬことも許されない
絶望のあまり、食事を拒否して自殺を図る者もいました。
「死ねば魂はアフリカへ帰れる」と思ったのでしょう。
でも、商人はそれを許しません。死なれたら損だからです。
彼らは「スペキュラム・オリス」という金属製の開口器(口を無理やりこじ開ける器具)や、焼けた炭を使いました。
ペンチのような器具で顎をこじ開け、喉の奥に流動食を無理やり流し込む。
「死ぬ自由」さえも、彼らにはなかったんです。
アフリカ全土に広がった「ガン・スレイブ・サイクル」
アフリカの部族間対立を利用したヨーロッパ人…アフリカ人の手によって売られた奴隷
ここで、よくある質問に答えておきましょう。
「どうやってそんなに大量の人を誘拐したの?白人がジャングルに入っていって捕まえたの?」
実は、少し違うんです。
ここにも深い「闇」があります。
多くの場合、奴隷を内陸部から狩り集めて、海岸で白人に売ったのは、同じアフリカの人々(沿岸部の強力な部族や王国)でした。
当時のアフリカでは、部族間の戦争が絶えませんでした。
勝った部族は、負けた部族を捕虜にします。
それまでは、捕虜は自分の村で家内奴隷として使ったりしていましたが、そこへヨーロッパ人がやってきて、悪魔の囁きをするんです。
「その捕虜を我々に売ってくれないか?代わりに、この『最新式の銃』をやろう」
銃を手に入れた部族はどうなるか?
強くなりますよね。
そして、隣の部族を襲い、そらに多くの捕虜(奴隷)を捕獲し、また白人に売って、もっと多くの銃と交換する。
逆に、銃を持っていない部族は、一方的に狩られるだけです。
自分たちが生き残るためには、自分たちも銃を手に入れなければならない。
そのためには、誰か他の人間を捕まえて売るしかない。
この「ガン・スレイブ・サイクル(銃と奴隷の悪循環)」が、アフリカ大陸全体に広がってしまったのです。
コンゴ王国などの伝統ある国々も、このサイクルに巻き込まれ、社会が崩壊していきました。
ヨーロッパ商人は、この構造を巧みに利用して、自分たちの手を汚さずに、アフリカ人同士を戦わせ、大量の人間を効率よく集めさせたんです。
これは「分断統治」の走りとも言える、極めて悪質なやり口でした。
こうして地獄の船旅を生き残った人々は、カリブ海やアメリカ南部のプランテーションに届けられます。
そこで待っていたのは、死ぬまでの強制労働です。
特に過酷だったのが、「サトウキビ」のプランテーションです。
砂糖は「白い金」と呼ばれました。
しかし、サトウキビの収穫は重労働です。
炎天下、鋭い葉で体を切り刻まれながら、朝から晩までナタを振るう。
そして、製糖工場での作業。ここが地獄です。
高温で煮えたぎる釜の前で、24時間体制で作業します。
一瞬の居眠りが命取りになります。
疲労でふらついた奴隷が、腕をサトウキビ粉砕用のローラーに巻き込まれて切断する事故や、煮えたぎる蜜の中に落ちて死ぬ事故が多発しました。
現場には、緊急用の「斧」が常に置かれていました。
腕が巻き込まれたら、即座に腕を切り落として命だけは助けるためです。
カリブ海の奴隷の平均寿命は、到着してからわずか数年、場所によっては7年程度だったとも言われています。
完全に「使い捨て」です。
「子供を産ませて育てるコストよりも、死ぬまで働かせて、死んだらまた新しい奴隷をアフリカから買ってきた方が安い」
そんな冷酷な計算が、大真面目に成り立っていたのです。
しかし、人間はただ黙って殺されていたわけではありません。
1791年、カリブ海のフランス領サン・ドマング(現在のハイチ)で、大規模な奴隷反乱が起きました。
指導者は、元奴隷のトゥサン・ルヴェルチュール。
「黒いナポレオン」と呼ばれた男です。
彼らはナポレオン軍を撃退し、世界初の黒人共和国「ハイチ」を建国しました。
この革命は、奴隷主たちを震え上がらせ、「奴隷貿易はリスクが高すぎる」と思わせるきっかけの一つになりました。
19世紀に入り、イギリスを中心に奴隷貿易は禁止されました。
ウィリアム・ウィルバーフォースなどの活動家の努力もありましたが、最大の理由は産業革命です。
「奴隷よりも、給料を払って自分で買い物をしてくれる『労働者』の方が、経済全体にとっては得だ」という、資本主義の新しい計算が生まれたからでもありました。
人道的な理由だけではなく、経済的な理由でシステムが変わったのです。
現在でも続く?奴隷貿易
さて、奴隷貿易は終わりました。
でも、私たちは本当に「文明的」になったんでしょうか?
今、私たちが持っているスマートフォン。
その中に入っているコバルトというレアメタル。
これをコンゴの鉱山で、安全装備もなく、素手で掘っているのは誰でしょう。
子供たちではないでしょうか。
私たちが着ている激安のファストファッション。
その綿花を摘み、劣悪な環境で縫製しているのは誰でしょうか?
カカオ農園で、学校に行けずに働いている子供たちが作ったチョコレートを私たちは食べていませんか?
形を変えた「搾取」の構造は、今も世界中に張り巡らされています。
私たちは、遠い国の誰かの犠牲の上に、この便利な生活を享受しているかもしれない。
あの砂糖入りの紅茶を飲んで「美味しい」と笑っていた18世紀の貴族たちと、スマホを片手にコーヒーを飲む私たちは、どれだけ違うと言い切れるでしょうか?
大西洋の海底には、今も数百万人の遺骨が眠っていると言われています。

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